NBAの偉大な選手は数多くいますが、中でもウィルト・チェンバレンは最も有名な選手の一人と言ってもいい存在でしょう。
とはいえ、NBAに詳しくない人はあまり聞いたことのない人物でもあるかと思います。
なぜなら彼はNBAの最多記録を多く所持していますが、そのどれもが異次元すぎて更新できないレベルなのです。
そのため比較しようにも比較できず、結果話題にされることも少なくなってしまうわけです。
そんな永久不滅の数々の記録を残したチェンバレンですが、彼の選手生活は決して楽なものではありませんでした。
ということで今回は、チェンバレンの歴史について見ていくことにしましょう。
目次
ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)
項目 | 詳細 |
国 | アメリカ合衆国 |
出身 | カンザス大学 |
ドラフト | 1959年 地域指名 |
所属チーム | 1959-1962 フィラデルフィア・ウォリアーズ
1963-1964 サンフランシスコ・ウォリアーズ 1964-1968 フィラデルフィア・76ers 1968-1973 ロサンゼルス・レイカーズ |
ポジション | C(センター) |
身長 | 216cm |
比類なき得点力とリバウンド力
チェンバレンといえば得点力とリバウンド力です。
当時のNBAはスリーポイントシュートがなく、ゴール下がメインの競技でした。
そのためビッグマンは現代よりも屈強な選手が多く、そこで活躍するには相当な実力が必要になります。
その世界でチェンバレンは並み居る戦士たちの上から、得点やリバウンドをことごとくさらっていきました。
愛されない人柄
チェンバレンの圧倒的な実力は当然チームのエースにふさわしいものでしたが、一方で負けた時の責任もとても大きいものでした。
つけ加えて、馬鹿にされてしまうような風貌などによりファンやメディアから誹謗中傷を受け、一時は引退も考えるほどでした。
「誰もゴリアテを愛さない」というチェンバレンの有名な言葉も残っています。
永久不滅の記録
1試合100得点
チェンバレンの持つ記録で最も有名なのが1試合100得点でしょう。
1962年3月2日のニューヨーク・ニックス戦、相手の先発センターがいなかったためにチェンバレンは点を入れ放題でした。
相手はチェンバレンの記録を阻止しようとファウルを連発し苦手なフリースローに持ち込ませますが、この日はチェンバレンのフリースローがことごとく決まり、試合終了残り46秒で達成しました。
終わってみればフィールドゴールは63本中36本成功、フリースローは32本中28本成功と、フリースロー試投数以外はNBA記録というとんでもないものでした。
1試合55リバウンド
1960年11月24日のボストン・セルティックス戦、チェンバレンは1試合55リバウンドの偉業を達成しました。
今のNBAでは、1試合でチームリバウンドが50を超えれば多い方ですので、それを1人で成し遂げたとなると、それはもう更新不可能と言っても過言ではありません。
シーズン平均50.4得点
1961-1962シーズンに打ち立てられたシーズン平均50得点は言うまでもなく史上唯一の記録です。
この年のチェンバレンのシーズン得点が4000得点ですが、NBA史上シーズン3000得点を記録しているのがチェンバレンとマイケル・ジョーダンだけであることを考えると、どれだけ異次元な記録かわかりますね。
その他の記録
その他にも、シーズン平均リバウンド数、シーズン通算リバウンド数、シーズン平均出場時間数など、数え切れないくらい永久不滅の記録を所持しています。
幾度となく立ちはだかるセルティックスの壁
当時最強のセルティックス
どれだけチェンバレンが偉大な記録を残そうと、プレイオフでは必ずと言っていいほどセルティックスの壁が立ちはだかりました。
中でもセルティックスのエースであるビル・ラッセルとの対決は”Battle Of Titans”と呼ばれ、高い注目を集めました。
スタッツ自体はチェンバレンの方が上であったものの、総合力で勝るセルティックスが幾度となくチェンバレンに敗北を味わわせました。
1966-67シーズンの初優勝
このシーズン絶不調だったボストン・セルティックスをようやく下し、キャリア8年目にして初優勝を手にすることが出来ました。
しかし後にも先にも、10年以上続くセルティックスとの戦いでチェンバレンがセルティックスを下せたのはこの年だけでした。
引退とその後
1973-74シーズン終了後、14年間の選手生活と1年間のコーチ生活に幕を下ろしました。
偉業を達成させ続けた15年間のキャリアの中でNBAチャンピオンの座にたどり着いたのはわずか2回と、とてつもなく苦難なキャリアだったと言えるでしょう。
その後は様々なビジネスで成功を収めており、クラブ経営やスポーツ産業などに尽力しています。
また、引退後に復帰の噂が何度か流れたものの、結局それが実現することはありませんでした。
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