ヒストリー

【NBAヒストリー Vol.15】”バッドボーイズのリーダー” アイザイア・トーマス

NBAの歴史に名を刻む全てのものが好かれていたとは限りません。

皆さんは”バッドボーイズ”と呼ばれ、忌み嫌われた集団をご存知でしょうか。

1980年代のデトロイト・ピストンズの別称であり、彼らは必要以上に乱暴かつ卑劣なチームとして一世を風靡しましたが、一方でリーグの強豪チームとしても評価されていました。

そして”バッドボーイズ”のリーダーこそ、今回ご紹介するアイザイア・トーマスです。

不屈の闘志でチームを牽引した彼の歴史を振り返っていくことにしましょう。

アイザイア・トーマス(Isiah Thomas)

項目 詳細
アメリカ合衆国
出身 インディアナ大学
ドラフト 1981年 2位
所属チーム 1981-1994 デトロイト・ピストンズ
ポジション PG(ポイントガード)
身長 185cm

1980年代を代表する名ポイントガード

185cmとNBAのポイントガードの中でも小柄な身長の部類に入るトーマスですが、彼の卓越したハンドリング能力、ゲームメイク力は、それを補って余りあるものでした。

1984年からは4年連続でシーズン平均20得点、10アシストを記録したほか、1982年から1993年まで12年連続オールスターゲームに出場したことからも、1980年代を代表する名ポイントガードだったと言えるでしょう。

”バッドボーイズ”のリーダー

トーマスの小柄ながら強気な性格はチームの精神的な柱にもなり、強力なディフェンスかつ荒いプレイスタイルが特徴の”バッドボーイズ”のリーダーとして機能しました。

年齢よりも若く見える様相、人柄の良さそうな笑顔を見せることが多々あったものの、”バッドボーイズ”のリーダーというイメージとプレイスタイルから「微笑んで相手を倒す」と言われるほど…

1985年のオールスターゲームでは、当時ルーキーながら脚光を浴びていたマイケル・ジョーダンに一切パスを出さない(フリーズアウト)など批判を浴びることは多かった反面、そのメンタルは並外れたものでした。

人一倍強い勝利への欲求

トーマスの勝利への欲求は人一倍強く、チームが勝てていないキャリア初期には退団を考えたこともあったとのこと。

1年目から勝利に何が必要なのか学ぶためにNBAファイナルを観戦しに行き、バスケットボールに限らずアメリカンフットボールのスター選手らにも会い、勝利の秘訣を探りました。

この勝利をとことん追求する姿勢は、後ほどの歴史を語る上でもいくつか見られることでしょう。



弱小チームから”バッドボーイズ”結成、そして2連覇へ

(引用元:thesportster.com)

トーマスが、”バッドボーイズ”が、NBA全体から嫌われていたとしても彼らが積み上げてきた実力は本物です。

”バッドボーイズ”の結成、NBAチャンピオン2連覇、そして”バッドボーイズ”の終焉…

トーマスが歩んできた歴史を振り返っていくことにしましょう。

弱小チームから”バッドボーイズ”結成

トーマスが1981年のNBAドラフトでピストンズに全体2位指名された際、当時のピストンズは4年連続でプレイオフを逃している弱小チームの一つでした。

当初ピストンズへの入団を希望していなかったトーマスですが、球団関係者の説得により彼はピストンズでプレイすることとなりました。

トーマスはルーキーイヤーで平均17.8得点、7.8アシストでオールルーキー1stチームに選出、オールスターにも出場という堂々たるスタートを切ると、2年目には平均22.9得点、7.8アシストを記録してオールNBA2ndチームに選出されています。

しかしチームの成績は勝率5割を超えることができず、プレイオフ出場が叶わない状態が続いていました。

トーマスのキャリア3年目となる1983-84シーズン、ピストンズは新たな指揮官にチャック・デイリーHCを任命すると、チームは49勝33敗を記録して6年ぶりのプレイオフ進出を果たします。(プレイオフではファーストラウンド敗退)

1985年にピストンズはドラフトでジョー・デュマースを指名し、リック・マホーンをトレードで獲得、さらに翌1986年にはジョン・サリーとデニス・ロッドマンを獲得し、”バッドボーイズ”のコアメンバーが揃うこととなりました。

トーマス自身もこの頃から成績をさらに向上させており、1984年からは4年連続平均20得点、10リバウンド以上、同年から3年連続オールNBA1stチーム選出、1984年と1986年にはオールスターMVPを受賞するなど、”バッドボーイズ”のリーダーに相応しい成績を残すようになっています。

悲願の2連覇へ

”バッドボーイズ”を結成し戦力を強化したピストンズにとって、目指すべきゴールはやはりNBAチャンピオンでした。

1986-87シーズンのプレイオフ、25年ぶりにカンファレンス決勝まで勝ち進んだピストンズは、当時最強チームのボストン・セルティックス相手に2勝2敗と互角の勝負を繰り広げていました。

しかし第5戦、1点リードで迎えた第4クォーター最終盤でトーマスはインバウンズパスを相手に奪われて逆転負けを喫すると、第6戦は勝利で終えたもののロードの第7戦に敗れて姿を消すことになります。

リベンジに燃えるトーマスとピストンズは、翌1987-88シーズンのカンファレンス決勝でボストン・セルティックスを4勝2敗で見事に下し、NBAファイナルでロサンゼルス・レイカーズと激突しました。

ピストンズは先に3勝2敗と王手をかけるも、第6戦でトーマスが足首を負傷するというまさかのアクシデントが起こります。

トーマスは不屈の闘志でコートに立ち、第4クォーターだけでNBAファイナル記録となる25得点を記録するも、チームは1点差で敗れる結果に。

結局第7戦もレイカーズが勝利することになり、ピストンズはあと一歩のところで優勝を逃すこととなりました。

それでも成長を続けるピストンズは翌1988-89シーズン、再びNBAファイナルの舞台に戻ってくると、マジック・ジョンソンをはじめとした主力を欠いたレイカーズに4勝0敗と完勝し、トーマスにとってキャリア9年目でNBAチャンピオンに輝きます。

さらに翌1989-90シーズン、カンファレンス決勝では実力をつけてきたマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズを第7戦までもつれた末に下すと、NBAファイナルではポートランド・トレイルブレイザーズを4勝1敗で下し、悲願の2連覇を成し遂げました。

そしてトーマスはこのシリーズで平均27.6得点、7.0アシストを記録し、自身初のファイナルMVPにも輝きました。



”バッドボーイズ”の終焉、引退へ

2連覇を成し遂げたピストンズに迫っていたのは、彼らと同様に着々と実力を付けてきたブルズでした。

1990-91シーズン、ピストンズとブルズは再びカンファレンス決勝で対決することになりましたが、第7戦までもつれた昨年とは一転し、ブルズがピストンズを4勝0敗で下したのです。

第4戦で大差が付いてシリーズ敗退が明らかになった試合終了間際、ピストンズの主力メンバーはトーマスに率いられてコートから立ち去り、相手の選手に言葉をかけなかったことで批判を浴びることになりました。

そしてそれこそ”バッドボーイズ”が終焉を迎えた瞬間だったと言えるでしょう。

ブルズに敗れて以降、トーマスは怪我をする機会が増え、チームの成績も低下する一方に…

そして1993-94シーズンにチームが20勝62敗を記録したのを最後に、トーマスは13年の選手生活に終止符を打つこととなりました。

引退後

引退後のトーマスは、様々な役職や仕事でバスケットボールに携わっています。

内容
1994-1998 トロント・ラプターズの共同オーナー兼球団副社長
1998-2000 CBAオーナー
2000-2003 インディアナ・ペイサーズのヘッドコーチ
2004-2008 ニューヨーク・ニックスのゼネラル・マネージャー
2006-2008 ニューヨーク・ニックスのヘッドコーチ(GMと兼任)
2009-2012 フロリダ国際大学のヘッドコーチ
2015- ニューヨーク・リバティ(WNBA)のヘッドコーチ

また、現役時代に着用していた背番号『11』はピストンズの永久欠番になっています。

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  • 原著:Marcus Thompson,2
  • 著:マーカス トンプソン,2
  • 翻訳:東山 真

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