NBAの歴史上でも優れたビッグマン、センタープレイヤーというのは数多く居ますが、その中でもヒューストン・ロケッツをNBAチャンピオン2連覇に導いたアキーム・オラジュワンは格別でしょう。
現代の識者でもオラジュワンを、歴代トップセンターの1,2位に置くことは珍しくなく、彼の才能と実績はそれほどまでに素晴らしいものでした。
今回は、そんなオラジュワンの歴史を見ていくことにしましょう。
目次
アキーム・オラジュワン(Hakeem Olajuwon)
項目 | 詳細 |
国 | ナイジェリア(アメリカ合衆国) |
出身 | ヒューストン大学 |
ドラフト | 1984年 1位 |
所属チーム | 1984-2001 ヒューストン・ロケッツ
2001-2002 トロント・ラプターズ |
ポジション | C(センター) |
身長 | 213cm |
ビッグマンとは思えない卓越したスキル
オラジュワンが他のビッグマンより優れている言われる最大の理由は、当時のビッグマンからは考えられない卓越したスキルにあります。
213cmという長身にも関わらずゴール下で繰り出すムーブはキレが鋭く、そこから放たれるショットは正確かつ強烈なもので、そんな多彩なオフェンス力から、いつしか”ドリームシェイク”という代名詞が付くこととなりました。
当時サンアントニオ・スパーズでエースを務めていたビッグマンのデイビッド・ロビンソンは、リーグ屈指のディフェンダーでしたが、そんな彼ですらシーズン中に「彼のスピンムーブを止められる選手はいない」と言わしめるほどの能力であったため、いかにオラジュワンのスキルが優れているかがよく分かりますね。
▼現代でも必ず通用するであろうオラジュワンの”ドリームシェイク”
名だたるビッグマンを蹴散らした実績
1990年代のビッグマンは、非常に豪華な顔ぶれが揃っていました。
オラジュワンや先述したロビンソンのほか、パトリック・ユーイングやシャキール・オニールなどの彼らは皆、通算成績で平均20得点、10リバウンド以上を残している歴史的な名選手ばかりです。
その中でもオラジュワンは彼らが所属するチームに勝ち、ロケッツを2連覇に導いたのですから、彼がどれだけ素晴らしいのかは言うまでも無いでしょう。
特に1993-94シーズンにはシーズンMVP、最優秀守備選手賞、ファイナルMVPといったタイトルを獲得しており、彼が歴代屈指のビッグマンであることを世の中に知らしめることにも繋がりました。
入団当初からトップセンターであったオラジュワンの歴史
オラジュワンのスタッツで何より恐ろしいのが、ルーキーイヤーから12年連続でシーズン平均20得点、10リバウンド以上を記録したということです。
入団当初からリーグのトップセンターとして台頭し続けたオラジュワンの歴史を、振り返って見ましょう。
栄冠を掴むに至らなかったキャリア初期
オラジュワンは1984年のNBAドラフトでヒューストン・ロケッツに全体1位指名されたことで、NBA入りを果たしました。
この年のNBAドラフトは、マイケル・ジョーダンやチャールズ・バークレイ、ジョン・ストックトンといった傑物を多く排出したことで有名で、そのことからもオラジュワンが当初から期待されていたことは伺えるでしょう。
オラジュワンはそんな期待に応えるかのように、ルーキーイヤーをシーズン平均20.6得点、11.9リバウンドと高いスタッツを残し、さらには前年29勝に沈んでいたロケッツを48勝にまで引き上げるなど、素晴らしい活躍を見せました。
翌1985-86シーズンにはプレイオフのカンファレンスファイナルで、強豪のロサンゼルス・レイカーズを4勝1敗で破り、自身初のNBAファイナルに進出します。
ファイナルでは当時最強と謳われていたボストン・セルティックスに2勝4敗で敗れたものの、入団2年目にしてチームをNBAファイナルまで導いたオラジュワンは、この頃から既にスター性に溢れていたと言えるでしょう。
しかし翌シーズン以降、オラジュワンはオールNBA1stチームに複数回選出されるなどリーグトップクラスのセンターを極める一方で、チームはプレイオフで勝てない時期が続き、次第にオラジュワンへ対する批判も増えてくるようになりました。
2連覇を成し遂げた全盛期
ロケッツのフロント陣はオラジュワンをトレードするか悩み、オラジュワンもまた自身をトレードしようとする球団に不信感を募らせていました。
しかし1992年に和解すると、その影響かオラジュワンに全盛期が訪れるようになります。
1992-93シーズンに自身初の最優秀守備選手賞や、4年ぶりのオールNBA1stチームに選出されると、翌1993-94シーズンには自身初のシーズンMVP、さらには2年連続の最優秀守備選手賞も受賞しました。
チームもプレイオフでは順当に勝ち星を重ね、ついには1985-86シーズン以来のNBAファイナルへ上り詰めます。
対戦相手はパトリック・ユーイング擁するニューヨーク・ニックスで、第7戦までもつれる大激戦となりましたが、最後は見事に勝利を収めて自身初のNBAチャンピオン、さらにはファイナルMVPにも輝きました。
翌1994-95シーズン、ディフェンディングチャンピオンとして挑んだオラジュワンとロケッツでしたがレギュラーシーズンは勝ち星が思うように伸びず、第6シードに。
それでもなんとかカンファレンスファイナルまで到達すると、第1シードのデイビッド・ロビンソン擁するサンアントニオ・スパーズも4勝2敗で退け、2年連続のNBAファイナルに駒を進めます。
NBAファイナルの相手は、シャキール・オニール擁するオーランド・マジックでした。
当初の下馬評はマジックでしたが、オラジュワンは”ドリームシェイク”を駆使してシャックを翻弄すると、4勝0敗のスウィープで見事に2連覇を達成、さらには2年連続ファイナルMVPも受賞しました。
低下するスタッツと、怪我に悩まされたキャリア末期
2連覇を果たした翌1995-96シーズンもオラジュワンは、シーズン平均26.9得点、10.9リバウンドと高いスタッツを残しますが、チームを再びタイトルへ導くことはできず、カンファレンスセミファイナルでシアトル・スーパーソニックスに0勝4敗で敗れてしまいます。
1997-98シーズンには怪我の影響で、平均得点は16.4点まで下降し、長年悩まされていた不整脈に襲われることもありました。
怪我の増加やスタッツの低下に伴い、2001-02シーズンにトロント・ラプターズへの移籍を決意し、ロケッツに別れを告げます。
そしてラプターズで1年間プレイした後、オラジュワンは18年間の壮大な選手生活に終止符を打ちました。
その他
NBAの歴史に名を残す偉大なレジェンドであるオラジュワンの豆知識を、少しだけご紹介しましょう。
- 1989年に、18得点、16リバウンド、10アシスト、11ブロックという4つのスタッツで二桁を記録するクアドルプル・ダブルを達成。NBAの公式記録では、クアドルプル・ダブルを達成したのはオラジュワンを含め4度しかありません。
- オラジュワンは1984年10月27日のNBAデビュー戦で24得点、9リバウンド、6アシスト、2スティール、1ブロックを記録しています。また、2001年4月17日のロケッツでの最終戦も、まったく同じ24得点、9リバウンド、6アシスト、2スティール、1ブロックを記録しました。
- 引退後の2002年に、オラジュワンが着用していた背番号「34」が、ロケッツの永久欠番となっています。