ヒストリー

【NBAヒストリー Vol.14】”NBA史上最も万能な選手” オスカー・ロバートソン

昨季、オクラホマシティ・サンダーのラッセル・ウェストブルックが、前人未到の2年連続シーズン平均トリプルダブルの偉業を達成したのは、記憶に新しいことでしょう。

しかし半世紀以上前にも一度だけ、シーズン平均トリプルダブルを達成した”NBA史上最も万能な選手”がいました。

その選手の名は、オスカー・ロバートソン。

彼の才能、偉業はもはや伝説的であり、時にはバスケットボールの神様であるマイケル・ジョーダンを超えると言われることもある選手です。

ということで今回は、ロバートソンの歩んだ伝説的な歴史を振り返っていくことにしましょう。

オスカー・ロバートソン(Oscar Robertson)

項目詳細
アメリカ合衆国
出身シンシナティ大学
ドラフト1960年 1位
所属チーム1960-70 シンシナティ・ロイヤルズ

 

1970-74 ミルウォーキー・バックス

ポジションPG(ポイントガード)
身長196cm

▼ロバートソンのキャリアハイライト集!

NBA史上最も万能な選手

冒頭でも記述したように、ロバートソンは”NBA史上最も万能な選手”と言っても過言では無いほどの能力を持った人物です。

当時のガード選手としては196cmの身長は高い中で、ガード選手ならではのスピードやクイックネスを備え、フォワード選手並みのフィジカルを持ち、さらにはバスケットIQも高い、まさに非の打ち所がない選手として評価されていました。

”NBA史上最高の選手”として語られることもあり、有名なスポーツ記者のレナード・コペット氏は、「オスカーよりオールラウンドな選手を見たことが無い。(マイケル)ジョーダンにできることを、オスカーはそれ以上にこなせた」と言葉を残しています。

さらに殿堂入り選手のネイト・サーモンドに、「オスカーは高く跳べなかったが、それ以外はジョーダンより上だ。」と言わしめるほどであり、もしも時代が違えばジョーダンらとの優劣もハッキリしていたかもしれませんね。

トリプルダブル

ロバートソンを語る上で決して外せないのが、万能性から記録される”トリプルダブル”でしょう。

トリプルダブルとは、1試合で得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックのうち3つのスタッツで二桁の数字を記録することを指します。

スーパースターですら簡単に記録できるものではない数字にも関わらず、ロバートソンはNBA史上初めて”シーズン平均”でトリプルダブルという偉業を成し遂げました。

直近2シーズンにウェストブルックが達成するまで、半世紀以上にも渡ってロバートソン以外に達成者が居なかったことを考えると、この記録がどれだけ素晴らしいかは想像に難くありませんね。

しかも当時はトリプルダブルというものがあまり知られておらず、ロバートソン自身も「そんなに凄いことなら、毎年やっていたのに。」と語るほどでした。

近年になってロバートソンのスタッツが調べられ、その結果彼は通算181回ものトリプルダブルを記録していることが判明し、この通算回数は2位のマジック・ジョンソンの138回を大きく上回る伝説的な記録となっています。

選手会長としての活躍

ロバートソンはコート内のパフォーマンスだけでなく、コート外でも選手会長としてNBA選手の地位向上に努めました。

1970年に起きた”オスカー・ロバートソン訴訟”は有名なものの一つであり、NBAと当時存在したライバルリーグのABAの合併に伴い、選手の年俸が減らされることを危惧した選手会が、リーグを訴えるという出来事がありました。

結果的にABAとの合併は行なわれたものの、代わりにフリーエージェント条項や大学ドラフトの規定が改定され、以降のフリーエージェント制の確立や、今やどのプロスポーツよりもNBA選手の年俸が高くなるなど、大きな業績を挙げたと言えるでしょう。

輝かしい個人成績を残した全盛期と、NBAの頂点に立った後期

(引用元:sportsmemorabilia.com)

ロバートソンのキャリアは、主に2つに分けられます。

一つは、オールラウンドな輝かしい個人成績を残し、キャリアの全盛期を迎えたシンシナティ・ロイヤルズ時代。

そしてもう一つは、悲願のNBAチャンピオンに輝いた、キャリア後期もミルウォーキー・バックス時代。

その両方を、見ていくことにしましょう。

シンシナティ・ロイヤルズ時代

当時のNBAドラフトは現在と異なり、地域指名(地元出身選手を指名できる制度)があり、その影響でロバートソンはシンシナティ・ロイヤルズに全体1位指名で入団しました。

ロバートソンは1年目から平均30.5得点、10.1リバウンド、9.7アシストのオールラウンド性を発揮し、新人王、アシスト王、オールスターゲーム出場、オールスターMVP、オールNBA1stチーム選出といった、数々の実績を残しています。

2年目の1961-62シーズンは、NBAの歴史に残り続ける偉業を遂げたシーズンとなりました。

平均30.8得点、12.5リバウンド、11.4アシストを記録し、NBA史上初のシーズン平均トリプルダブルを達成したのです。

さらに3年目の1963-64シーズンも、平均31.4得点、9.9リバウンド、11.0アシストを記録し、自身初のシーズンMVPも受賞します。

しかし一方で、いくら輝かしい個人成績を残してもプレイオフで頂点に立つことはできず、それどころか当時最強のボストン・セルティックスに幾度となくNBAファイナルへの道を阻まれ、結果的にロイヤルズ時代のプレイオフ最高成績はカンファレンス決勝進出止まりでした。

そして1970年、ロバートソンはバックスへトレードされることに。

これにはNBAファンの誰もが衝撃を受けたものの、最も定説となっているのは当時ロイヤルズのヘッドコーチであったボブ・クージーが、自身の記録をロバートソンが次々と破っていくことに嫉妬したからというもののようです。

ロバートソンはこのトレードについて、「僕はクージーが間違っていたと思うね。このことを絶対に忘れない。」と語り、大学時代から約14年間過ごしたシンシナティに別れを告げることとなりました。

ミルウォーキー・バックス時代

ミルウォーキー・バックスへトレードされたロバートソンは、ルー・アルシンダー(後のカリーム・アブドゥル・ジャバー)とビッグデュオを組むこととなります。

既に32歳を迎え、ベテランの域に達していたロバートソンは、若いながらリーグトップクラスのセンターと評されていたジャバーにエースの役割を譲りました。

ロバートソンのスタッツは著しく低下したものの、一方でチームは圧倒的な強さを発揮し、ついにはプレイオフでもロバートソンにとって初のNBAファイナル進出を果たすと、勢いそのままに移籍後1年目にして自身初のNBAチャンピオンに輝きました。

しかしやはり年齢的なものには抗えず、移籍後2年目には足に慢性的な故障を抱えるなど、引退も視野に入れるようになってきます。

それでもロバートソンはバックスでのプレイを続け、1973-74シーズンには再びNBAファイナルへ進出しますが、ここでも宿敵セルティックスが立ち塞がり、第7戦までもつれこむ激戦の末、惜しくも敗れてしまいました。

そしてこのシーズン終えたロバートソンは引退を決意し、14年間のキャリアに終止符を打ちました。

ロバートソンのラストシーズンであった1973-74シーズンのバックスは59勝を挙げたのに対し、引退後の1974-75シーズンは38勝しか挙げられなかったことからも、ロバートソンは最後までチームに影響力を与えていたことが分かるものでした。

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