2018年8月27日、NBAから偉大な選手の一人が、ツイッター上で現役引退を表明しました。

 

その男の名は、マヌ・ジノビリ

 

アルゼンチン生まれのジノビリは、独創的なプレイスタイルと驚異的なハッスルを武器に、スパーズを16年間支えた歴史に残る名選手です。

 

ということで今回は、ほとんど表立つことは無くとも、常に裏からチームを支え続けた”アルゼンチンの英雄”であるジノビリの歴史を振り返っていくことにしましょう。

 

マヌ・ジノビリ(Manu Ginobili)

(引用元:blogarama.com)

アルゼンチン
出身 アンディーノ・スポルトクラブ
ドラフト 1997年 57位
所属チーム サンアントニオ・スパーズ 2002-2018
ポジション SG(シューティングガード)
身長 198cm

 

▼マヌ・ジノビリのベストプレイ20選!▼

 

相手を翻弄する”ジノビリ・ステップ”

ジノビリの最大の武器といえば、変幻自在なドリブルムーブではないでしょうか。

 

キレのある彼のドリブルを止めることは困難であり、ペイントエリアでは相手を翻弄するユーロ・ステップ、あるいは彼の名が付けられた”ジノビリ・ステップ”を駆使し、得点を稼ぎました。

 

下記の動画を見れば、彼のドリブルがいかに変幻自在であるか、知ることができるでしょう。

 

 

歴代屈指のシックスマン

ジノビリの役割は、先発出場して存在感を示すことではありません。

 

彼の役割はシックスマンであり、16年のキャリアの大半をシックスマンとして過ごしています。

 

NBAシックスマン賞の受賞は2008年の一度のみですが、ジノビリのハッスル力や勝利への執念は誰よりも勝っており、常にチームを鼓舞し続けました。

 

数字では表立つことはありませんが、シックスマンとして与える影響力は絶大であっただけに、彼が歴代でも指折りのシックスマンであることは疑いようのない事実です。

 


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プレイオフでより輝く勝負強さ

ジノビリの本領は、プレイオフでに入ってこそ発揮されました。

 

レギュラーシーズンのキャリア平均得点は13.3点に対し、プレイオフのキャリア平均得点は14.0点を記録しており、プレイオフの方が得点力が高いことが分かります。

 

もちろん数字だけでなく、実際にスパーズを4度のNBAチャンピオンに導いた実績もあり、シックスマンながらにして十分すぎる勝負強さを持ち合わせていたと言っても良いでしょう。

 

常にプレイオフに出場し続ける常勝軍団のスパーズに居たからこそ、それだけ多くの経験を積めたため、ジノビリの勝負強さは身についたのかもしれません。

 

ナショナルチームでの活躍

ジノビリが”アルゼンチンの英雄”と呼ばれるのは、それにふさわしい結果を残したからと言っても過言ではありません。

 

1998年にアテネで開催された世界選手権でデビューを飾って以降、アルゼンチン代表の中核としてチームを引っ張ってきました。

 

最大の見せ場は2004年のアテネオリンピックで、準決勝でスパーズのチームメイトであったティム・ダンカンを中心としたアメリカ代表に、ジノビリとアルゼンチン代表は89-81で大金星を挙げたのです。

 

続く決勝でもイタリア代表を81-69で下し、自国のバスケットボールの歴史としては初のオリンピック金メダルを獲得しました。

 

2008年にもチームを牽引し銅メダルを獲得したことが、ジノビリが”アルゼンチンの英雄”と呼ばれる所以なのでしょう。

 


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華やかでなくとも、歴史に名を刻んだ23年間

(引用元:blogarama.com)

ジノビリの選手生活は決して華やかなものではありませんでしたが、それでも彼は歴史に名を刻むに値する足跡を残してきました。

 

スパーズで過ごしたのは16年間ですが、それ以前のユーロリーグでのプレイ期間も含めると、彼は23年間もプロの世界に居たことになります。

 

その軌跡を、振り返ってみましょう。

 

1999年のドラフト指名されるも…

1999年のNBAドラフトで、ジノビリはスパーズに全体57位指名を受けることとなります。

 

しかし当時ユーロリーグでプレイしていたジノビリに移籍の意思は無く、実際に彼がNBA入りを果たすのは3年後の2002年のことでした。

 

その間にも、セリエAのヴィルトス・ボローニャでプレイをしていたジノビリは、2001年にユーロリーグチャンピオンとファイナルMVPを、さらには2001年と2002年には2年連続セリエAのMVPに輝くなど、申し分ない結果を残し続けていました。

 

2度のNBAチャンピオンを経験した先発時代

晴れて2002年にスパーズでNBAデビューを果たしたジノビリは、1年目から平均20分以上の出場時間を与えられ、チームに貢献をします。

 

その活躍はオールNBA2ndチームに選出されるだけに留まらず、チームは順当にプレイオフも勝ち上がり、ルーキーイヤーにして初のNBAチャンピオンを経験しました。

 

スパーズ3年目の2004-05シーズンには、自身が出場した74試合でキャリア唯一すべての試合に先発出場をし、自身初のオールスターゲームにも選出されています。

 

シーズン開始前のアテネオリンピックでの金メダルの勢いもあったのか、プレイオフでは優勝候補のフェニックス・サンズや、2連覇を目論むデトロイト・ピストンズを倒し、自身2度目のNBAチャンピオンに輝きました。

 


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シックスマンへの転向

スパーズ5年目の2006-07シーズン、ジノビリは前シーズンの不調もあったことから、シックスマンへの転向を受け入れることとなります。

 

するとこれがジノビリのプレイスタイルにフィットし、完全に復調したのち、自身3度目のNBAチャンピオンに輝きした。

 

翌年の2007-08シーズンもジノビリのシックスマンは驚異的な実力を発揮し、ベンチ出場でありながらチームトップの平均19.5得点を記録するとともに、自身初のシックスマン賞を受賞しました。

 

しかしプレイオフのファーストラウンドで左足首を負傷すると、以降は6シーズンの間、タイトル獲得を逃すこととなります。

 

4度目のNBAチャンピオンと晩年期

ジノビリは徐々に年齢的な衰えや、怪我の増加があり、2012-13シーズンのNBAファイナルでマイアミ・ヒートに敗れた際には引退を示唆しました。

 

それでも2年契約で再起を誓った彼は、2013-14シーズンに再びNBAファイナルまで勝ち上がり、3連覇を目論むヒートに4勝1敗でリベンジを果たすことに成功し、自身4度目のNBAチャンピオンに輝きます。

 

しかし2014-15シーズン終了後にはスパーズと再び2年契約を結ぶも、パフォーマンスの衰えはより顕著になり、2015-16シーズンにはルーキーイヤー以来の平均一桁得点まで落ち込みました。

 

以降はジノビリの成績が大きく上向ことはなく、チームもNBAファイナルへ辿り着けないシーズンが続きましたが、ベテランとして精神的な部分でもチームに支え、スパーズのプレイオフ連続出場記録の更新に貢献し続けました。

 


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ラストシーズンとなった2017-18シーズンは、11月3日のシャーロット・ホーネッツ戦で通算1000試合出場を達成するとともに、通算1000試合出場達成時の勝利数で歴代トップの記録を残しました。

 

さらにプレイオフでは、4月22日に行なわれたファーストラウンド第4戦で最後の勝利を収め、チームメイトのトニー・パーカーとプレイオフにおける歴代最多勝デュオとして132勝を残しました。

 

そして長い時間悩み葛藤した結果、2018年8月27日に、ツイッター上で静かに現役引退をを表明し、ジノビリらしい形で選手生活に幕を閉じることとなりました。

 

ジノビリが目立つ場面はさほど多くなかったかもしれません。

 

しかし彼のチームやプレイに対する熱意や執念、想いというものは、多くの人々の心に残ったことでしょう。

 

彼は”アルゼンチンの英雄”であり、”スパーズの英雄”でもあったかもしれませんね。

 

 

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