スティーブ・カーは決して見出しを飾るような選手やコーチではなかったかもしれませんが、NBAの歴史を語る上で彼の名前は欠かせないでしょう。
マイケル・ジョーダンを擁するシカゴ・ブルズ――ティム・ダンカンやデイビッド・ロビンソンを擁するサンアントニオ・スパーズ――ステフィン・カリーを擁するゴールデンステイト・ウォリアーズ――。
こうしたチームの優勝は、しばしばチームの中心選手の名前から始まりますが、その陰にはスティーブ・カーという名前が存在するのです。
選手としてのスティーブ・カー
今では考えられないような下層から、カーのキャリアはスタートしました。
彼はアリゾナ大で5年間を過ごした後、1988年のドラフトでフェニックス・サンズに2巡目全体50位で指名を受けたのです。
それから、クリーブランド・キャバリアーズへトレードされたカーは徐々にNBAの水に順応し始めましたが、キャバリアーズで3年間を過ごした1992-93シーズンの終わり頃に、オーランド・マジックへトレードされました。
そして当時シカゴ・ブルズのゼネラルマネージャーであったジェリー・クラウスは、カーが3ポイントシュートのスペシャリストを熱望していることを知っていたため、1993年のフリーエージェントでカーと契約を結ぶことを決めました。
それが伝説の始まりであり、その後の歴史はよく知られているように、カーはブルズの2度目の3連覇で重要な役割を果たしています。
同時に、彼の労働倫理はリーグで大きな評判を与え、ジョーダンが2度目の引退を発表した後、スパーズのグレッグ・ポポビッチ・ヘッドコーチがカーに目をつけました。
そしてダンカンやロビンソンの隣でプレイし、カーは自身のキャリアの中で4連覇(ビル・ラッセルが居た頃のセルティックスの選手以来初)を成し遂げたのです。
その後、カーは一度ポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされながらも、1年後に再びスパーズへ復帰し、キャリア最後のシーズンを自身5度目の優勝で締めくくりました。
結果的にカーは5度の優勝を飾りましたが、それは単純にチームメイトに恵まれていたというわけではありません。
なぜなら、カーのキャリア平均3ポイントシュート成功率は45.4%で、これは今でも破られていない歴代トップの数字でもあり、彼自身が優勝に貢献できる歴代屈指の名シューターであることを証明したためです。
コーチとしてのスティーブ・カー
引退後、アナリストやコメンテーターを務めていたカーは、フェニックス・サンズの球団社長兼GMを務めることもありましたが、2010年には辞任しています。
数年間はほとんど話題の無かったカーでしたが、転機は2014年に訪れました。
彼はニューヨーク・ニックスからのヘッドコーチのオファーを断り、マーク・ジャクソンの後任としてゴールデンステイト・ウォリアーズのヘッドコーチになることを決断したのです。
今となっては、正しい決断だったと誰もが言うでしょう。
もちろんウォリアーズでの成功もありますが、同時期にニックスに雇用されたデレック・フィッシャーは2年後に解任されたためでもあります。
カーが指揮を執るラン&ガンのスタイル、速いペースのオフェンスはリーグを席巻し、カリーとクレイ・トンプソンのスプラッシュブラザーズを新境地に引き上げ、数人のベテランを迎え入れたことによって、ウォリアーズはNBAで最も支配的なチームの一つとなりました。
ウォリアーズは、カーが選手時代(ブルズ)で経験したシーズン最多勝を73勝9敗と更新し、5年連続NBAファイナル進出や、3度の優勝に輝きました。
もちろん、それはウォリアーズに素晴らしい選手が揃っていたためでもありますが、そうした選手たちをまとめ上げることができるコーチは多く居るものではありません。
カーが選手としてとんでもないキャリアを残してきたからこそ、とんでもないコーチになれたとも言えるでしょう。